伊香保黄金の湯小間口 TOPページへ
伊香保 小間口とは 伊香保温泉 湯の効能 小間口権者組合 リンク



 
小間口
寛保元年(1741年)4月に渡辺民部が出した「覚」には寛永16年(1639年)に安中領主、井伊兵部少輔が定めた「樋口并切こ満寸法」(温泉を大堰より引湯する為の樋と小間口の寸法をひとつにならべたものという意)を記載している。ここには伊香保における温泉利用の最も基本的な権利、即ち大堰からの引湯が明確に大屋14件によって15の「切こ満」から行われていることを示している(最末流のこ満木のない2ヶ所の樋口を含む)。一つの小間口としては竪分(縦、高)9分が最大で、1軒、7分が1軒、二つの小間口を有し堅分の合計が1寸5厘の者が1軒存在したが一般的大屋は皆一律で堅分は6分であり9軒存在した。最末流の2軒には堅分がないが一般的大屋の半分程度の湯量が供給されていたことが湯坪の数より推定することができる。伊香保温泉共同体に於いては温泉利用権(小間口権)と共に湯坪の数も規制されていた。しかも湯坪の大きさは二間四方(3.64m四方=13.2平米)と大島氏過眼録にも分眼帳(千明家文書)にも記されていることからみて、数のみでなく大きさも「湯坪二間四方」と規制されていたものと考えられる。また湯坪にある浴槽も畳2枚程(1坪3.3平米)の広さであり(伊香保志抄出更衣日記)、一湯坪の必要湯量は小間口寸法と湯坪数からみて堅1分5厘とみなすことができる。各大家の屋敷には小間口寸法に見合った数の湯坪があり、このうち一つは屋敷湯であって門屋、店借層の利用に供し、残りの湯坪が大屋の内湯として使用されていた。このように江戸時代伊香保温泉共同体にあっては大堰より引湯する湯口を小間口と呼び、これは温泉利用の権利を物的に表示するものであった。この小間口の数は13ヶ所と規程され、小間口の新設は一般に許されないのが旧慣であった。但し例外としては江戸時代寛政元年(1789年)の薬師の湯の小間口、明治になってからは明治23年(1890年)の御用邸の湯の小間口、及び明治24年(1891年)の木暮武太夫の新小間口があるが、この伊香保温泉特有な小間口制度は宝永3年(1706年)、寛保元年(1741年)、天保7年(1836年)等に「温泉の寒暖をめぐる争い」、「温泉の湯量をめぐる争い」など大屋間の対立があったにも拘わらず、近世を通して温泉不譲渡の鉄則に支えられ明治まで変わる事はなかった。従って明治中頃以降、大正、昭和それに平成16年4月1日の現在も最末流2ヶ所の温泉取入口を除いて、上記3ヶ所の小間口を加え小間口の総数は計16ヶ所である。
 
 
小間口は定盤木(定板木)をもって寸法が定められ、明治10年(1877年)以前はその寸法は分数(曲尺には長く、呉服尺には短い特殊な尺度)と定められていた。明治17年(1884年)に源泉敷地に改良を加えたので、温泉量が増加し、この結果、定盤木の上に人差し指をあてて各小間口の堅分を「ツメガカリ」分だけ増量し、定量とすることになったが、個人により指の太さが異なり不合理であるという理由で明治20年(1887年)10月、小間口所有者一同が協議して堅2分づつ定盤木を訂正し8分(曲尺)とした(但し岸六左衛門の下の小間口堅3分5厘、医王寺の1分5厘はそのまま。又最末流の島田、福田には小間口はないのでそのままだが、温泉流量としては両者合わせて2分増量した)。これが現在の小間口寸法の基準であり、その後の変動により基準より堅分が増加しているもの、又は逆に縮小している小間口もみられるが、その位置は設置された当初より変更されることは決してなかった。
Copyright (c) 2004 koganenoyu All right reserved.